2014年2月6日木曜日

今一番ホットな話題をお伝えする!それが当ブログの使命です!(嘘)

なんかヤフコメに次々記事が出てきて、えらい騒ぎになってますね。
クラシック音楽の作曲家がこんなにニュースになるなんて珍しいんじゃないでしょうか。

「クラシック音楽作品名辞典」を読んでいると、時々「偽作」という言葉が出てきます。
モーツァルトなんかは、番号の付けられた41曲の交響曲以外にも沢山の交響曲を残したらしいのですが、
それらの曲に結構な確率で「偽作の可能性が高い」というコメントがついてきます。
交響曲第2番なんて、はっきりと「モーツァルトの作品ではない」と書いてあります。

何でこんなことが起こるのか、ずいぶん前に僕も疑問に思ったのですが、
簡単に言うと、
無名の作曲家が自分の曲をなんとかして沢山の人に聞いてもらいたいと思いつめた結果、
「もう俺の曲じゃなくて、モーツァルトの曲ってことにしちゃえ」と、
自分の楽譜にモーツァルトの名前を書き込んでしまう。

100年後、どっかの図書館から「モーツァルトの遺作、発見。」となる

とりあえず作品番号つけられてリストに載っちゃう。

ってことみたいです。

でも優れた作曲家にはフィンガープリントのように、その人独特の作曲技法、簡単に言うと「くせ」があって、
新しく発見された遺作は、研究者の目から見ると、どうもおかしい。
いまいちモーツァルトらしくない。

色々な証拠集めの結果、偽作だとバレて作品リストから外される場合が多いみたいです。
(でもうまいこと、誰にもバレずに時の洗礼を潜り抜けている偽作も残っているのでしょう。)


嘘をついてまで自分の曲を後世に残そうとする作曲家がズルイのか、いじらしいのか。

モーツァルトの曲だからという「お題目」だけで有難がる聴衆が気の毒なのか、おバカなのか。

それが問題DA!

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さて、今一番ホットな話題になっちゃってる作曲家の話ですが、
ちょっと前に、この人の「交響曲第1番」CDを会社の先輩に借りて聴きました。
その時点では既に世間的には有名になってたらしいんですが、
僕はどういう人なのか全く知らない状態で音楽だけ聴いたわけです。

で、1時間くらいかかるんですが、最初から最後まで重苦しい一辺倒で、
ハッキリ言って拷問みたいでした。
3楽章構成なのに、どの楽章も似たり寄ったりの雰囲気。
マーラーが聴き手を一切楽しませないというコンセプトで作曲したら、こんな感じになりそうだな、と思いました。
まあ、副題が人類史上(特に日本人として)大変な悲劇を連想させるものなので、
こういう曲になっても仕方ないか。
でも悪いけど、もう一回聴きたいとは思わないな、って感じの印象でした。

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次に、「交響曲第1番」の作曲技法について、思ったことを書いてみます。
(つまり、どういう種類の音楽か、ということ)

21世紀になってから書かれた、バリバリの現代音楽のはずなのに、
作曲技法としては何一つ耳新しいことをしていないのは、僕でも分かりました。
時代としてはマーラーくらいで止まってる感じ。

同じ交響曲というジャンルでも、
50年以上前に書かれたショスタコーヴィチ、プロコフィエフらの作品と比較して
はるかに古臭い音楽と言えます。

最初から作曲家が「新しい音楽形式」の創造を目指していないのは一目瞭然。
そういうタイプの作曲家は現代にも沢山います。
懐古主義とかネオロマン派とか呼ばれて、20世紀以降に何度も現れてきた部類でしょう。

シェーンベルク以降の音楽は、「最新の作曲技法の開発工房」みたいになっていって、
音楽を作りたいのか、技法を作りたいのか、順番が完全に逆になったあげく、
どの技法で作られた音楽も、一般の聴き手には耳障りなノイズにしかならない、
という印象がぶっちゃけあります。
いわゆる「ゲンダイ音楽」ってやつです。

先述したショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ベンジャミン・ブリテンといった人たちは、
そのような「作曲技法の開発競争」から背を向け、伝統的な技法の延長線上で、
自分にしか作れない音楽を生み出し続けたところが偉大なのだと、僕は思っています。

はじめて聴く曲でも、すぐに「これはショスタコーヴィチの曲だ」と分かる。
それは、最初に書いたとおり、その作曲家にしかないフィンガープリント的な独自性が譜面に刻印されているからです。
その独自性とは、シェーンベルク的な「作曲技法の開発競争」から得られたわけではなく、
もっと微妙な、しかし絶対的な音楽性の違いなのだろうと思います。

ラヴェルは新しく作曲を始める人に、
「最初は模倣でいい。模倣の中にあなたらしさを見つけ出しなさい」
というようなことを説いたそうです(正確な言い回しは知りません。ごめんなさい)。
その「あなたらしさ」の追及の先に、作曲家のフィンガープリントが確立される、ということだと思います。

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長々と抽象的なことを書いてきましたが、
何が言いたいのかというと、

問題の作曲家の「交響曲第1番」からは、
全然その作曲家にしかない独自性、個性を感じ取る事が出来なかった、ということです。

作曲技法的には破綻が全くなく、よく書けているのは分かりましたが、
聞いていて全然面白くないし、何一つ感動することもありませんでした。
その作曲家の個性、「どうしても表現したいこと」が伝わらないからです。

好意的に解釈すれば、まだ若い作曲家(ラヴェルが言うところの模倣の段階)で、
今後自分の個性を見出せば大成するかもしれませんね、くらいのとこです。

ところが、そんなツマラナイ「お作品」がなんでだか知りませんが、
世間的には偉い話題になっていて、
挙句の果てにゴーストライター騒動にまでなっているのが、まったく理解できません。

少しでもクラシック音楽を聞いていれば、
(せめて、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンの有名な曲を一曲ずつくらい)
件の作曲家の曲が、「ふ~ん、それで?」という程度のものでしかないことくらい、
一度聞けば分かるはずです。

重複しますが、「何も新しいことをしていない」「何も個性がない」
形だけ上手にまとまっただけの音楽だからです。
こういう音楽に本当に価値があるなら、地球上は大作曲家だらけです。

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今回のニュースを読んで、本当に呆れたのは、
この人が全聾だから、というだけの共通点をもとに、
一部のマスコミに「現代のベートーヴェン」と呼ばれていたことです。

僕はベートーヴェンはどちらかと言えば嫌いですが(モーツァルトもねw)、
それでも、音楽史においてどういう役割を果たした人なのか、くらいは理解してます。

ちょっとでもクラシックを知ってる人なら、この人を「現代のベートーヴェン」とは呼びません!

日本人は、バカばっかなのか!?

少しは自分を恥ずかしいと思ってください。

僕は呆れてるし、絶望してます。
こんな茶番がまかりとおるなら、
近い将来、日本では誰もクラシック音楽なんか、まじめに作曲しなくなるし、聴くこともなくなるでしょう。

ちったあ自分の耳で音楽を聴いてみてくださいよ。
全聾とか、そーゆー余計な付帯情報抜きにして。

もう一回書くけど、どれでもいいから
バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンあたりを一曲でも聴いてみてください。

そうすれば、こんなウソつきの曲なんか、なんとも思わなくなるはずですから!

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最後に、
問題の作曲家をさっきWikipediaで検索してみたところ、

しょっぱなから、

   …4歳で母親がピアノの厳格な英才教育を始める。
   …5歳で「マリンバのためのソナチネ<無の弾劾>Op.1」を作曲。


って流れで大爆笑w。


普通に考えりゃ、おかしいでしょ。

英才教育の結果、5歳でマリンバのためのソナチネを書くことはあり得ても、

それに「無の弾劾」なんてタイトルつけるとか、あり得ないだろ!

どういう英才教育だよ!